食べることが楽しみ、は虚しいか。
先日SNSにポストされる写真の傾向に関するレポート記事を見かけました。確か西の方は食に関する写真をUPする人が多いとかそんなデータがあったような。
大阪出身の叔父が仕事の都合で北関東に転居した折に
「こっちでは大阪みたいにやたら食べるものの話をせん」
と言っていたと聞いて、ああそういう地域性みたいなものがやはり存在するのかと考えた出来事にリンクしたのでここで引用しようと探したのですが肝心のソースを見つけられず。
ただの空目か勘違いか。いい加減な情報ですみません。
食べる系ブログはバカみたい説
何の自慢にもなりませんが、私もついつい食関係の記事を書いてしまうクチです。最近はInstagramくらいしかやってないけれどやっぱりそこにも食べものポストは多い。しかも酒がらみばっかり。
家族や友人知人、近しい人たちは何の疑いもなく食話を繰り広げるタイプが多かったのであまり意識していませんでしたが、食に興味のない人にとっては興味関心が食に偏っている人の話題は酷く退屈に感じる場合もあるようで。
「何食べたとかどこいったとか自分で作った料理とかブログに書いてる人はバカじゃないのかと思う」
と友人が言い放った時はかなり衝撃を受けました。私自身にそういう発想がなかったのでああそうか、自分にとっては普通の行為でもそういう見方をする人もいるのか、と。
ちなみにその友人もサイトを運営をしており内容は趣味のスポーツを軸にそれに関連した情報やファッション、美容、健康などの話題が中心。中には食関連の記事もあるけれどそれはオーガニック商品に関する情報であったり食の安全性を考えるものが中心でどこで何を食べて美味しかったデス、みたいな単純な内容ではありません。
バカ、と言われたらさすがにショックではありますが、確かにやたら食べたり飲んだりに意識が向いている人に他に考えることないの?と問いただしたくなるのもわからなくはない。趣味の食べ歩きを綴っていたブロガーさんが2011年の春
「自分はこんな時にこんなことをしていていいのだろうかと疑問に思った」
という言葉を残し、長らく運営していたブログを閉鎖されたのはとても残念だったけど、その気持ちもまた痛いほどわかるのです。
食べることが楽しみ、は虚しいか
好きな人と共に美味しい食事を囲むのは楽しく愉快なものでさらに食や店の好みが似ていればなお嬉し、ではあるけれどそうじゃなければ仲良くなれないのかといえばそれもまた別の問題。
実際私の友人でも食に全くこだわらない人も多く、しかし彼らの興味関心の幅は広くそして深い。私が決して足を踏み入れることがないであろうマラソンやテニス、サーフィンなどスポーツ系の趣味の話題や自身はプレイせずとも妙に詳しくフィギュアやらサッカーやらを語れる人もいる。スポーツのみならず現代アートやお茶にお花、次々に繰り広げられる多彩なトピックスにへええと尊敬の念を持って頷きつつ、それに引き換え我が食への執着心たるやと妙に恥ずかしくなる瞬間は多々あるわけで。
私だって先週行った居酒屋で出された煮込みのバランスの良さについて熱く語るばかりでなく幼少から続けているバイオリンとかクラシックバレエとか能狂言鑑賞に関する薀蓄あたりを華麗に披露したいよ。もうこの例えからして発想が貧困すぎてどうしようもないですが。
さらに厄介なことは食への関心が強いけれど決して意識は高くはなく、美味しいものの為ならば金に糸目をつけない食べ歩きグルメパーソンでもなく、本格的な料理を一から学ぶ料理好きでもなく、一晩一升どんとこいの豪快酒豪伝説も持たない中途半端さがまたなんとも形容しがたいもどかしさを感じるポイント。同じ食関連でも1年中ラーメンしか食べませんなんていうポリシーがある人は健康状態は気になるけれどその突き抜けた潔さには憧れすら抱いてしまうのです。
食べることしか楽しみがないのはつらいけど
食べることへの興味が旺盛なあまり食べる話ばかりしすぎてバカっぽく見られたくないな、などというしょうもない自意識はこの際置いておくとしても、食をエンタメ的に楽しむことに関する疑問と葛藤を持つようになったのは暫くキッチンのない部屋で暮らしたこと、そしてその周りで毎日見かけた裸足の子供たちの存在も大きいかもしれません。
関連 食べることは生きること。
これは私が呑気に美味い不味いと言っているこの瞬間も世界には飢えに苦しんでいる子供達がいるのだ云々などという単純な感情などではなく、食べるとか自分で調理するとか誰かの料理を食べる行為や意味について根本的に混乱したといったほうが近い。
この混乱は未だ解決はしていないしきっと死ぬまで正解には辿りつかないだろうけど、それはそれとしても食べることに興味を持つのは何も恥ずべき、そして自ら否定すべきものでもないのかなとは思い始めています。食べること「だけ」が楽しみ、ならばそれもなかなか辛いけどおかげさまでそんなこともないんだし。
何をやってもつまらなくて毎日退屈で辛いという悩みを持っている人からすればしょうもないことを面白がれるのは悪くない性質なのかもしれないし、逆に私が日々勤しんでいる街散策やブログだってなんという時間の無駄遣い、もっと生産的なことにリソースを費やせばいいのにと思われる人だっているでしょう。それでもせっかく自分が楽しい好きだと感じられるものがあるのに立派な誰かのそれと勝手に比較してこれは恥ずかしいこと、ダメなこと、もっと高尚なことをしなければなどと抑え込んでしまうのももったいない。
関連 盛らない生き方。
何も人に誇れる素敵っぽさだけが自分の人生を豊かにする要素ではないもんね。
人には話せない愛しのアレ
と、結局毎度お馴染みアホらしいコンプレックスを払拭するための小さな自己肯定行為に2,000文字を費やしたところでようやく収束しそうな気配ですが、人に自慢できるような素敵な趣味ではなくむしろ知られるとちょっと恥ずかしい、こっそり隠して楽しみたいアレって自分にとっては大事なテリトリーでありその聖域を他者に侵されたくないからこそ言えない大切なお宝なのかもしれないなあ、なんてことも思ったり。
まあこれが性癖の話とかになっちゃうとそれはそれでいろいろややこしいわけですが、別に全世界に向けてカミングアウトする必要はないにしても自分が好きなものを好きでい続けることさえ自ら否定してしまうのって相当辛い。
好きなものは好き、これはもう仕方ない事実。ラーメンでもポエムでもアイドルでもアニメでもなんでもいいけどせめて自分ぐらいはその好きを許してあげないとさすがにしんどい。よって大人のみなさんも自分の好きな恥ずかしいアレやコレも否定することなくひっそりとでいいから大事に育んでいきましょうね、という結びにて今日のところは何卒。
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Comment
crispy様
故中島らも氏が自身の新聞連載の投稿ハガキに関して
南からの投稿は笑えるアホみたいのが多く、
北からの投稿は笑えない辛い内容のものが
多い傾向がある。
と、何かのエッセイに書かれてました。
全部が全部、という訳ではないでしょうが、
地域性はあるのかもしれませんね。
池波正太郎のエッセイ集「食卓の情景」に
収録されている『母の好物』と『京都の稽古』
という二篇に今日のブログの答…とは違うけれど
ちょっと膝を叩くような記載があります。
そうか、そうか、そうだよね、みたいな感じの。
ちゅーなーさん
地域性はあるかもしれませんね。特に気候が思考に与える影響は大きいような気がします。南の島にて子供達に食べ物をせがまれるとさすがに胸が痛むのですが職のない男たちが道端にたむろしてのんびりおしゃべりに興じているなんというか外で寝ても死なないしバナナとか食ってりゃいいじゃん感には暑い国特有の強さみたいなものも感じます。いや、深刻は深刻なんでしょうけどどこかお気楽さが漂うというか、これは寒い国ではない風景だろうなと。そもそも外で寝れませんからね。
>『母の好物』と『京都の稽古』
ああ、確かにそうですね。食べて、寝ることで生きているのだと実感しているのかもしれません。そして「寝る」は一種類だけれど「食べる」にはいろんな方法があるので時に混乱したりするのかな、なんて。