人生のど真ん中を失うということ。
先日たまたま目に入った記事を読んでびっくり。
アニサキスにあたって、一生ほとんどの魚が食べられなくなった話 (さとなお.com)
近頃あちこちでその名称を耳にするようになったアニサキス。
一時的に激しい腹痛などの症状が出る「アニサキス症」だけじゃなくて、発症後は魚を食べることが命がけの行為となってしまう「アニサキス・アレルギー」というものもあるのですね。アナフィラキシーショックの存在は把握していましたが、詳しい経緯に関してはよくわかっておりませんでした。
人生のど真ん中を失うということ
リンクした記事を書かれている佐藤尚之さんは、大手広告代理店出身のクリエイティブディレクター。本業である広告周りの著書を多く出されています。
しかし私の中では90年代から情報量が多く熱量も高い食サイトを運営されていた「さとなおさん」の印象の方が強くて、しっくりくる。
そんな「食べる人」に起こった出来事だからこそ、今回の記事に驚いたのです。
食や旅が「人生のド真ん中」だったボクにとって、そして個人の鮨教室に通って魚の捌き方をプロにならっているくらいは今後の人生で魚に重きを置いていたボクにとって、これらがかなりの確率で損なわれたことは、ちょっと筆舌に尽くしがたいことです。
今後、どうやって生きていくかレベル。
どんな人に起こっても大変な出来事ではあるけれど、食べることにさほど興味がない、そもそも魚は好きじゃない、という人と、さとなおさんのような人とでは、状況は全然変わってくる。
世の中にはもっと深刻な状況で苦しんでいる人が大勢いるのに、魚が食べられないくらいで云々、とご本人も書かれていますが、人生のド真ん中に据えていた大切なものがある日突然ごっそり抜け落ちる喪失感たるや。たかが魚くらいでなんだ、とは、私には言えません。
誰にでも起こる危険性があるのに、対処法などの正しい情報が少なすぎると感じたさとなおさん。今後はアナフィラキシーアレルギーの研究に取り組み、その過程を連載や書籍執筆に繋げたいと書かれているので、前向きに考えれば新たな興味対象が生まれた、とも…いや、言えない。やっぱり言えません。
求めていたもの、得ていたものは何だったのか
さて、あれからしばらく経ちますが、わたくし未だ人生が変わるような出来事や出会いに遭遇しておりません。
もちろん各パーツに年齢なりのエラーは生じはじめており、逐一メンテナンスが必要な状態ではありますが、それも肌とか歯とか髪程度のお話で、今度の方向性が大きく変わってしまうような出来事は幸いにも、ない。
私には人生のド真ん中はこれ!と呼べるようなものは何もないしまた、途方もない喪失感に打ちひしがれた経験もない。だからこそ、こういう体験談は自分の想像の範囲を遥かに超えていて身震いしてしまうわけですが、この記事で興味深かったのは以下の一文。
ボクはストレスが溜まると美味しい鮨屋にひとりで行って楽しんでいたのですが、ふと「そういえば鮨を食べなくても平気な時期があったなぁ」と思い、いろいろ思い出してみたら、ジムに通っている時期だったんですね。
ストレス解消の手段でもあった鮨が失われた現在は、筋肉量を増やすなど、体づくりに注力すれば食生活がおのずと変化し、外食が楽しめずともなんとかなるのでは、という仮説を立て、トレーニングを実行しているとのこと。辛い状況に置かれたとしても、ほんの少し視点をズラすことでまた別の「光」は見つけられる、ということでしょうか。
これ、氏が食に求めているもの、食によって得られていたものは何だったのか、という発想ができたからこそ導けた仮説なのでは。そして、「ど真ん中」の対象がお金とか家とか車などの物質的なもの、或いは自分では決してコントロールできない誰かの存在しかなかったら、というか、そうじゃなくてもそう思い込んでいたら、ちょっと取り返しのつかないことになるよなあ、などと恐ろしくなる。
さらには、普段の生活や行動、思考と状況の変化などについて普段から細かく自分を観察しておかないと、そこにある「光」も見落としてしまうのかも、などと考えてしまった。
始めはただただアニサキスの恐怖に震えていたはずが、あれこれ思いつくままに書き連ねてまたややこしくなっただけの気もしますがとにかく。
人間は日々変化も進化も退化もしていく生き物。ゆえに自分はこういう人間でであると決めつけてアップデートを怠るのは危険だけれど、どういう状況にどう反応するのかを把握できる程度の自己観察は必要なのでは、と感じた出来事でした。
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手羽元と大根のバター煮、柿と三つ葉の白和え献立。
バター煮、なんという魅惑的な響きなのでしょう。 と言いつつ煮ていないのですが。
Comment
crispy様
どういう状況にどう反応するのかを把握できる程度の自己観察は必要なのでは
生まれ育ち勤務地東京の私が初めて転勤で
地方暮らしになり、送別会で「ちゅーなー君お疲れ様」
と、労を労って頂いた、大変お世話になった先輩が
生涯社会復帰出来ない病に倒れられたこと。
この一年、この二つの出来事が大きくのし掛かりました。
冒頭引用させて頂いたcrispyさんの言葉が
うっ…と何か背中に落ちるような感情を覚えました。
倒れられた先輩のお見舞いに行きましたが、
変わり果てたお姿に、どうしようもない、
喜怒哀楽のどれでもない
やり場の無い感覚に陥りました。
ネット創成期にさとなおさんのレポを
楽しんでた者としては大変驚きましたが、
一寸先は闇って本当なんですね。
長コメ失礼致しました。
考えさせられる事が多くなり、
ちょっと込み上げてしまいました。
ちゅーなーさん
もしかすると、自分のことよりも大切な方の変化の方が堪えるものなのかもしれませんね。
先輩のご事情は本当にお気の毒ですし、ちゅーなーさんの心中お察ししますが、誤解を恐れずに言うならば、それほどまでに思える方と同じ職場で過ごせたのはとても素晴らしいことだなと。上司も先輩も全く尊敬できないし、良い関係なんて築けない、という話も聞きますし、私もお世話になった先輩とはすっかり疎遠になってしまったので、余計にそう感じるのでしょうか。
言い方も言うタイミングも間違っているのは承知の上ですが、ちゅーなーさんをとても羨ましく思います。