自由きままに生きることの不自由さ。
自由とは、辞書によれば
「他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまえること。」
とのこと。
自由。その甘美な響き。
人は誰しも少なからず自由を求めているものでしょう。場所やモノに縛られず、いつでも自由に動ける状態でありたい。モノを持たない生活を選ぶ人は特に自由を求める傾向が強いかもしれません。
もちろん私も自由でありたいと「強く」考える人間です。しかし最近、自由の捉え方を間違っては勿体ないなと感じる出来事がありました。
またまた、旅に出る
さて、年末の旅のスケジュールが確定しました。
「旅」と言っても今回はほんの数日間。私にしては結構タイトなスケジュールです。
なぜか?
今回は珍しく一人旅ではないからです。ええ、いつも孤独に見える私ですが、共に旅する友人はいるんですのよ。
彼女とはずっと前から一緒に旅行しようと話していたもののなかなか実現せず、今回ようやく実行に移せました。友人は仕事が忙しいので時間に余裕のある私が旅の手配諸々を喜んで引き受けたのですが、これが難しい。
なぜなら、私はずっと一人で自由気ままに旅してきたから。
考えてみれば友人と旅先で合流するパターンや出張で会社の人と一緒、なんてのは近年何度もあったものの、出発から到着まで一緒のプライベート旅行は実に十数年ぶり。20代の頃、地元の友達と一緒に香港へ旅行したのが最後でした。
あまり深く考えず、いつものようにエクスペディアやらスカイスキャナーやらで検索しまくってよさそうなチケットを提案するも、なかなか合意にいたらない。友人もあれこれ調べてくれてお互いに意見を出し合うのだけど
「そのエアラインは避けたいなあ」
「ちょっと乗り継ぎ時間長すぎじゃない?」
「戻り羽田の便はないの?」
「現地出発早いのはイヤだ!」
など、決定するまでに時間がかかりまくりました。そして、エアーが決定しても今度は支払い方法云々でまたまた要調整なわけです。
え?そんなの普通でしょ、って?
自由を強く望む理由
そうなんです。みんなが日常的にこなしているこの
「他者との意見のすりあわせ」
が、私にはとてつもなく難しい。
ベストな選択をサクッとプレゼンしてパパッと決定できると思い込んでいた私は、結局は友人にも時間を取らせてしまったことを申し訳なく感じ詫びました。が、友人の様子を見ていると、もしかしたら誰かと共に行動するためにはこの程度時間をかけるのは極々当たり前のプロセスだったのかもしれない、とも思えたり。
と、まるで慣れない社内根回しに四苦八苦する新入社員のようなことを言っていますが、思い出した。
私、もともとこの能力なかったんだ。
お勤めしてないし、一人暮らしだし、一人旅ばっかりだし、「誰かと一緒」の感覚が相当鈍ってきちゃったかな、なんて思っていましたが、そうじゃなくてもともとダメでした。子供の頃から団体行動苦手、社会に出ても人と合わせられない、好き勝手自由にやらせてもらえる会社だったから長く働けた、そんな感じ。
だからこそ、常に自由であることを渇望したんだった。
一人行動を選ぶのは何より自分がラクだから。違う意見にぶつかった時にうまく調整できずに我慢したり、させたりするのがイヤだから。さらに正直に白状すれば、面倒だから。
そんな単純な判断で自由きままな選択ばかりを続けた結果、誰かと行動するに当たって思いがけずアワアワする不自由さを思い知ったのです。
もちろん一人で行動するのは悪いことばかりではありません。団体行動が苦手なのは裏返せば孤独に強いという長所にもなり得るでしょう。
でも、それで他者との関わりを割り切ってしまうのは、少々勿体ないよね。
他者から投げ込まれる変化球
苦手だしやりたくないし必要ないと判断できることについては別にやる必要はないでしょう。でも今回のように誰かと意見をすり合わせる作業は苦手だけどちょっと面白そう、もっとやってみたいな、と感じるならば下手なりにチャレンジしてみてもいいのかな、と。
というのも、今回あれこれ意見を出し合っている時に
「その発想はなかったわ」
という想定外の変化球がバシバシ投げ込まれたから。自分一人で全てを決めて行動するのはラクだけど、誰かと一緒にいるとこういう驚きもあるんだな、と改めて感じたのです。大げさかもしれないけれど、普段使っていない脳を刺激される感じ。
もちろんその変化球が大暴投だったりするとストレスになる恐れは大アリなのですが、幸いにも今回はおお!と目を見開くようなアイデアばかり。そうか、趣味も考え方も異なる他者と共に何かを成し遂げるのは、面倒なだけじゃなくてこんなラッキーも潜んでいるんだった、と久々に実感しました。
おーい、そんなことは小学生でもわかってるよ?アンタ今いくつ?
とお頭を心配されそうな内容ですが、この歳にして気がついたのではなく、今になってようやく腑に落ちた、といった感覚でしょうか。当たり前のことが当たり前にできないなんて、と嘆いてしまえばそれまでですが、今からでもまだ開けるべき扉はあるのだな、なんて静かな興奮に包まれたのでした。
いつでも自由でいたいけど、自分一人で実現できる自由の範囲はそう広くない。人生を楽しむために時として現れる多少の不自由は、実は本質的には不自由ではないのかもしれない。
些細な出来事を大きく考え過ぎなのかもしれませんが、普通に暮らしているだけでもこうして毎日いろんなことが起きて、さまざまな発見がある。生きている限り、退屈なんて到底できそうにありません。
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